茨木のり子ノート

「おとし物」を求めて….『詩のこころを読む』を読む1

茨木のり子さんの、『詩のこころを読む』を読み返しました。出版されてすぐに求めて読んだ本ですから、18年ぶりくらいになるでしょうか。読み終えてこれほど深く、透明でいて、何かしら温かい思いに満たされる書物というのは、それほどあるものではありません。

改めて思ったのですが、『詩のこころを読む』は単なる詩の入門書ではありませんね。この本の中には、美しくそして明晰な言葉で、彼女の人生と愛に対する考え方、芸術論がちりばめられています。すばらしいと思うのは、その言葉はきわめて明晰なんだけれど、押しつけになっていないということ。

それらはむき出しではなく、鉱脈の中で静かに光を放ちながら潜んでいて、読み手が成長してその宝石にたどり着き、自分で手に取り、自らの輝きとすることを待っているのです。

初めてこの本を読んだときは、紹介されている一つ一つの詩に目を輝かせ、味わい、感動していたのですが、再読してみると全体の構成の見事さに気づかされます。

「生まれて」、「恋唄」、「生きるじたばた」、「峠」、「別れ」という章立ては、「自然に浮かびあがってきたものを、どう並べようかと思ったら、偶然に『誕生から死』までになってしまったもので、最初からのプランではありません」(「はじめに」)ということですが、ふだん、テストのための教材という形でしか詩に触れることのない僕たちが詩の世界に遊ぶには、あらためて「生まれる」ことが必要なんですね。

事実、生まれ変わるというか、ワープするんですよ。「生まれて」の章の冒頭に置かれた、谷川俊太郎さんの「かなしみ」の第一行を読んだとたんに僕たちは。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに

ほらね、何か全く違う世界に、大宇宙のような広大な広がりを持った世界に、いきなりポーンと放り出された気がするでしょう?

何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

この「おとし物」、この「何か」を求めて、僕たちはこれからどこが出口でどこが入り口かもわからない迷宮を、さまようことになるんです。苦悩に満ちてではなく、あくまでも愉しく、ネ。詩という世界を旅するのはこういうことです。

なんだか訳がわからないって? だいじょうぶ。茨木のり子さんというすばらしいナビゲーターがいますから、僕たちは安心して(?)迷うことができますよ。

「何かとんでもないおとし物をしてしまった」という自覚をどうしても持てない人は、ちょっと困った。

でも、少なくとも青春という時代には、人はみな心のどこかにぽっかりと空いた穴のようなものを抱えているはず。そしてそれを埋めるものが何なのかはわからず、いらいらして歩き回り、探し求めるはず。

僕のような中年になったって、自分を振り返る余裕すら与えられず迷うにしてもろくに選択肢も残されていない年になったって、それでもやっぱり、いや、だからなおさら、そう簡単には満たされないむなしさで、憂鬱に一日を過ごすことがあるんです。

そんな日はあなたもこの本の扉を開き、愉しく迷宮のあちらこちらをさまよってみてください。読み終えたとき、あなたはきっと生まれ変わっていますよ。

・茨木のり子『詩のこころを読む』、岩波書店

茨木のり子の美意識….『詩のこころを読む』を読む2

 地上は今
ひどく形而上学的な季節
花も紅葉もぬぎすてた
風景の枯淡をよしとする思想もありますが

は、むずかしい行ですが、『新古今和歌集』(巻第四、秋歌)の藤原定家の、

み渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ

をふまえていて、白黒のモノトーンの世界、枯れ枯れの侘びしさを長くめでてきた日本の美学への批判を示しています。そしてもっと豊穣なもの、たわわな色彩、躍動的なものを準備し用意しているものへの期待をあらわにしています。

と、牟礼慶子さんの「見えない季節」という作品を紹介しながら、茨木のり子さんは書いています。おそらくこれは、茨木さん自身の考え、美意識の一端を吐露したものでもあるでしょう。

確かに茨木さんの詩はいつも輪郭がくっきりしていて、曖昧なところがありません。からりとした明るさ、翳りのないくっきりとした言葉の輪郭。

すっきり、くっきり、はっきり……何かの標語のようでちょっと品がありませんが、こんな言葉がぴったりします。硬質でありながらしなやかで、力強くていながら温かくて。伝統的とされてきた美学からはずいぶんと飛翔した、まさに戦後を象徴する地点にいるかのようです。

例をあげましょうか。たとえば、詩集『対話』に収められた「もっと強く」。

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは明石の鯛がたべたいと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは幾種類ものジャムが
いつも食卓にあるようにと

(略)

女がほしければ奪うのもいいのだ
男がほしければ奪うのもいいのだ

ああ わたしたちが
もっともっと貪婪にならないかぎり
なにごとも始まりはしないのだ

強い意志、ストレートなメッセージ。まるでキリキリとよく引き絞られた矢が、重くよどんだ大気を切り裂いてびゅんと彼方に向かって飛び去っていく、そんな感じがします。

ここには、明らかに未来があります。それが希望というか明るさになっているんですね。茨木さんは、決して感傷や悟りには逃げないんです。あるいは詠嘆に流れることがない。

冷笑もなければ、こう笑もありません。あるのは、僕たちみんなの未来に向けた意志なんです。それが言葉として、詩として結晶しているんです。その思想の深さ、そのダイナミズムが美しいのです。

もうひとつ、しなやかな例をあげると、詩集『見えない配達夫』に収められたあの有名な作品、「わたしが一番きれいだったとき」。

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

(略)

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な街をのし歩いた

(略)

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように

僕たちの父や母、そして祖父母の世代の人たちは戦中と戦後を必死に生き、僕たちに今日の豊かな社会を残してくれた。その労苦は決して疑うことはできないけれど、しかし一方、茨木さんのようにその体験を総轄できた人は、一体何人いたのでしょう。本当の意味で、戦後、新たな一歩を踏み出せた人は何人いたのでしょう。僕は去年、妹尾河童さんの『少年H』を読んだときもこのことを痛感したのでしたが……。

腕まくりして廃虚からのしのしと未来へ向けて歩き出す若き日の彼女の姿。一見豊かになったかのような現代にあっても実はこころに廃虚を抱える僕たちにとって、彼女は限りなく美しく、眩しい存在です。

飛翔、あるいはカタルシス….『詩のこころを読む』を読む3

僕も一時期、詩を書いていたことがあります。一生詩人であり続けるのは難しいけれど、ある瞬間ある時に限るなら、人はだれでも詩人を経験する……まあ、たいがいはヘボ詩人ですけれど。

でも、ヘボかヘボでないかはどこで判断するの? 茨木のり子さんは、〈浄化作用(カタルシス)を与えてくれるか、くれないか、そこが芸術か否かの分かれ目〉だと教えてくれます。

たとえば、濱口國雄の「便所掃除」。濱口は旧国鉄の職員でしたが、この超ユニークな詩の中で、彼は〈ケツの穴が曲がっている〉か、よっぽど慌てているかして便器を汚す客を呪います。はじめの七行。

扉をあけます
頭のしんまでくさくなります
まともに見ることが出来ません
神経までしびれる悲しいよごしかたです
澄んだ夜明の空気もくさくします
掃除がいっぺんにいやになります
むかつくようなババ糞がかけてあります

おそらく濱口が呪っているのは、便所を汚す客だけではないでしょう。こんな汚れた仕事をしなければならない自分自身をも、呪っているに違いありません。

それでも濱口は、「汚水が顔にかかり」、「くちびるにもつき」ながら、一生懸命に便器を磨きます。「美しくするのが僕らの務め」と心に決めて。
すると、「心も糞になれて」来る。

もう一度水をかけます
雑巾で仕上げをいたします
クレゾール液をまきます
白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
静かな うれしい気持ちですわっています
朝の光が便器に反射します
クレゾール液が 糞壺の中から七色の光で照らします

便所を美しくする娘は
美しい子供をうむ といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません

どうやら、きれいになっていったのは便器だけではなかったようです。作者の心まできれいに磨かれ、朝の光に輝いています。そしてこの詩を読んだ僕たちの心まで、すがすがしいものになります。

 けれどこの詩が――

社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます

あるいは、

クレゾール液が、糞壺の中から七色の光で照らします

のところで終わっていたとしたら、読んでもまもなく忘れてしまい、今に至るまでこんなに強烈に覚えてはいないでしょう。詩ではないと思ったかもしれません。そうです、「便所掃除」を詩たらしめたものは終わりの四行なのです。ここへ来て飛躍的にパッと別の次元へ飛びたっています。飛行機にたとえていうと、一つ一つの労働描写のつみかさねは、じりじり滑走路をすべっている状態で、だんだん速度をはやめ、或るとき、ふわっと離陸した瞬間が終わりの四行なのです。

茨木さんは、〈言葉が離陸の瞬間を持っていないものは詩とはいえない〉と言います。そうか、わかった。なぜ僕が本当の詩人になれなかったのかがわかったぞ。僕が昔書いていた詩は、最後までズルズル・ウジウジと滑走路を這いずりまわってばかりいたんだ。いっこうに離陸しなかった。たとえば、こんなふうに(「ぼくは泣いた」)。

ぼくは泣いた
一九八六年十月のある朝
仕事場へ向かうワゴン車の中で
ひとり
声もなく 泣いた

なぜ ぼくは
ろくに眠りもしないで
こんなにも朝早く
薄汚ないワゴン車のハンドルを
握っていなければならないのか

(略)

ぼくは泣いた
一九八六年十月のある朝
ひとり
声もなく

ね、最初から最後まで泣いてるんだもの。愚痴ばっかりだもの。不本意な気持ちはそれとして、そこを突き抜けてこそ得られる「新鮮な一瞬」、「静かな うれしい気持ち」が、当時の僕にはまったく見えていなかったんです。

涙だけでは詩にならない。怒りだけでもそうなのであって、そこから大きく飛翔して読み手を彼方へつれ去ってくれるものがなければ、本当の詩、いつまでも僕たちの心に残る詩にはなりません。

おそらく同じ意味合いのことを、茨木さんは石垣りんさんの「くらし」という鮮烈な作品を引きながら、「浄化作用(カタルシス)」と表現しています。
「くらし」という詩は、僕たちの「生」が多くのものの「死」、あるいは「犠牲」の上に成り立っているという事実を眼前に突きつける、恐ろしい詩です。石垣さんは台所(自らの「生」の場)に、鳥の骨はおろか「父のはらわた」さえ見つけてしまいます。ところが、そういう重いテーマの作品でありながら、僕たちは読み終えたあと一種の爽快さにひたされます。これがルポルタージュなどとは違う、詩という芸術に特有の、浄化作用なのです。

浄化作用(カタルシス)を与えてくれるか、くれないか、そこが芸術か否かの分かれ目なのです。だから音楽でも美術でも演劇でも、私のきめ手はそれしかありません。

巷には類書があふれているけれど、『詩のこころを読む』が他の編者によるアンソロジーとおおいに異なるわけが、この一節を読んでもわかりますね。そしてこの書が、初版から18年以上を経て今なお広く読みつがれているわけも。

愉しく迷う….『詩のこころを読む』を読む4

道に迷うのは、道が沢山あるから。人生という道も同様で、後になって振り返ってみるともったいないほどの豊かさに満ちていた青春という時期も、当の本人は五里霧中。先輩はいても先生がいるわけじゃなし、問題を見つけるのも自分なら、答を出すのも自分。深い霧に閉ざされて途方に暮れること、たびたびです。

ここはひとつ心の持ちようを少し変えて、迷うこと自体を愉しんでみたらどうでしょう。

無理に何かを見つけようとしたり、答を出そうと焦る必要はないんじゃない? 畳の縁に躓いたくらいで転んで骨にヒビが入る年じゃなし、何も怖がることはない。仮に転ぶんだったら、思い切って転んじゃえ。ちっちゃな子供の頃はあんなに飛び跳ね、転げ回るのが好きだった僕たちなのに、いつの間にか大人びちゃって。わからないのも転ぶのも、そして迷うのも、恐いことなんかじゃなくて愉しいことだった子供の心を、僕たちはいつのまに失ってしまったんだろう──。

さて、『詩のこころを読む』の最後に置かれた、岸田衿子さんの「アランブラ宮の壁の」。

(略)
わたしは迷うことが好きだ
出口から入って入り口をさがすことも

わたしは迷うことが好きだ……という一行。茨木さんは、「いいなあと思います。たいていは迷いをふっきろうとして無理するのに、『迷いも愉し』と言える心は強く、しかもこの一行を呼びだすための枕言葉のように、アランブラ宮のつるくさ模様がたちあらわれるのです」と読み解いています。

ゲームじゃないから、迷宮パズルは解けなくてもかまわない。そもそもこの迷宮、出口は「死」というワカラナイ世界。放り出されるその時まで、ある時は一人でさまよい、またある時は連れだってさまよい、とにかく迷うことを愉しめたらそれが一番。

岸田さんの詩を何度も読んでいると、「生まれて」、「恋唄」、「生きるじたばた」、「峠」、「別れ」と続く章立ての最後の最後にこの詩がさりげなく置かれている意味が、なんとなくわかるような気がしてきます。

茨木のり子さんと庄内

〈天馬空を行くがごとく庄内弁をしゃべりまくった〉と、茨木さんは生前の勝さんを思い出しながら書いていらっしゃいます。ゆかりの人々を訪ねて歩かれた戸村雅子さん(鶴岡市在住)によれば、勝さんは三川町東沼のご出身とか。また茨木さんは、1949年、23才で鶴岡市出身の医師故三浦安信さんと結婚。埼玉県所沢市に住まいされました。

このようにわが郷里と因縁浅からぬ茨木さん、山形県は庄内地方にかかわる記述も多いのですが、特に僕が興味を惹かれるのは、彼女がお母さんの想い出を通して東北を語るときです。

『言の葉さやげ』に収められた「東北弁」と題するエッセイの中で、彼女は形容詞に優れたものを持ち、美しい音の響きさえ持つ方言の魅力をたたえ、東北の言葉を擁護しています。〈もっと平気で豊穣な語彙をたのしんだらいいのに……〉と。

いかにも彼女らしいと思ったのは、こんな古代の痛快な事例(!)を紹介してくれていることです。

更にさかのぼれば、安部宗任が捕虜として京へ連れてこられ庭前に引きすえられたとき、公家たちがからかった。梅を指し「なんの花だ」と。宗任は和歌で即答する。

わが国の梅の花とは見たれども
大宮びとは何というらむ

方言をからかい、反撃をくらったという、これがわが国の方言問題における文献上の初見なのではないだろうか。それが東北弁であったことが、またこたえるが、宗任の歌はおっとりしたなかに負けてはいないしたたかさを隠していて、見事! と言ってあげたい気がする。(14頁)

うーん、詩的だし素敵ですよね。こんなしなやかな反撃をくらって、大宮びとはさぞかし目を白黒させたことでしょうね。さらに言えば、しなやかな例を彼女があげるのは、彼女自身しなやかにして痛快な反撃を得手としているからなんですよ。

ところで、茨木さんは1937年、11才のときに実の母を失っています。母の死。今に至るまで両親が健在な僕などには想像もつかない痛切な出来事。

まだ幼い時分の母との死別が、彼女の人間形成にどのような影響を与えたかは迂闊に云々出来ることではありません。ただ、雪に眠る庄内平野を一人歩む「寒雀」などの詩や、亡くなったお母さんには直接触れないまでも彼女が庄内地方に関連して書いたエッセイのなかには、母への思いが深々と埋め込まれているかのような印象を受けます。彼女にとっての庄内地方は、お母さんの思い出というフィルターによって浄化された、特別な地ではなかったでしょうか。

聖地と言ってしまっては大げさすぎるでしょうが、少なくとも原風景ではあったと思うのです。例えば、詩集には収められていない作品の一つに「母の家」という詩があります。すべては引用できませんけれど….

雪ふれば憶う
母の家
(中略)
母はみの着て小学校へ通った
母はわらじをはいて二里の道を女学校へ通った
それがたった一つ前の世代であったとは!
ふぶけば 憶う ほのあかりのごとく
母を生んだ古い家 かつての暮らしのひだひだを
(後略)

省略させていただきましたが、最後の二行を書かずにおかないのがいかにも茨木さんらしい。けれどこの詩編が読者の心を揺さぶるのは、そこに人肌の温もりがあるから、そこに何ともいえずなつかしく、「聖なる」ものがあるからです。またそれらを象徴するのが母であり、そしてそれは永遠に失われたものであるがゆえに、作者の痛いような孤独が、僕をうつのです。

  • 茨木のり子『言の葉さやげ』、花神社
  • 『茨木のり子』(花神ブックス)、花神社
  • 『茨木のり子詩集』(現代詩文庫)、思潮社

『韓国現代詩選』を傍らに

「外国語を学ぼう」という情熱だけは、年齢に関わりなく湧いてくるもののようです。いや、むしろ、なんの動機付けも必然性もなく、かといって疑問をもつヒマもないまま強制的に詰め込まれる受験英語よりも、社会的な経験を積み重ねたその過程で興味や関心を抱いて取り組む語学学習の方が、はるかに身に付くものなのかもしれません。時間はかかるとしても、「若い時はまだ日本語の文脈がしっかりしてはいない。五十歳を過ぎれば日本語はほぼマスターしたと言っていいだろう。それからゆっくり〈外国語への旅〉に出かけても遅くはない」(『一本の茎の上に』、90頁)、というわけで。

それにしても茨木さん、なぜに韓国語?

「韓国語を習っています」

と、ひとたび口にすると、ひとびとの間にたちどころに現れる反応は、判で押したように決まっている。

「また、どうしたわけで?」
「動機は何ですか?」

同じことをいやというほど経験し、そして私自身、一緒に勉強している友人に何度同じ問いを発したことか。
隣の国の言葉を習っているだけというのに、われひとともに現れるこの質問のなんという不思議。(『ハングルへの旅』、12頁)

いかにも不思議。英語やフランス語を習うのは自然で、韓国語に興味を持つのは? ……だなんて。

僕自身はと言えば、大学で習ったのはフランス語です。当時はフランスの近代美術に興味を持っていたし(ゴッホの手紙を原書で読めたらなあ、なんて)、講義の中には原書講読もありましたから。

語学は文化を学ぶための手がかりであって、学びたい文化があれば、まずはそこで使われている言語を学ぶことになります。そしておそらく、誰の目から見てもフランスの文化は学ぶに足ると思われているので、フランス語を勉強しています! と言っても誰も疑問など差し挟まずに励ましてくれるわけです。
ところが韓国語となるとそうはいきません。歴史を紐解いてみれば、日本は朝鮮半島の人々から本当にたくさんのことを学んできたし、人材を受け入れてもきました。貴族などの政治的、文化的指導者階級、あるいはまた先端技術者として。

つまりは先生であり先達だったわけだけれど、明治以降の日本は、近代化(欧米化)の達成度という物差し以外はすべて葬り去ってしまいました。欧米に対する劣等感をアジア諸国に対する優越感で癒してきた結果が、無関心や軽視ということなのかもしれません。僕自身あまり興味を持ってこなくって、知識もロクにないのだから、これは自己批判として。

さて、五十の手習い、茨木さんの「晩学の泥棒」の結実であり精華が『韓国現代詩選』です。作品自体が素晴らしいのか、あるいは茨木さんの翻訳が素晴らしいのか。双方ともに、であるに決まっているけれど、詩人によって精選された韓国の現代詩が、磨き抜かれ選り抜かれた日本語で僕たちの前に立ち現れるこの快感、この至福。

茨木さんによると、(十年前の記述ながら)韓国では詩は熱い時代にあるようです。日本の書店で店員さんに、「シシュウはどこにありますか」なんて聞くと、刺繍や編み物のコーナーを教えられそうですが、韓国では詩集のコーナーはかなり大きく、若者が群がっているのだとか。ノートに好きな詩を書き写して自前のアンソロジーを作る若者も多いといいます。僕はこういう熱気に、若さというかエネルギーを感じます。

政治や経済がダイナミックに変貌しようとしている時って、人々の魂を鼓舞するような詩がもてはやされたりしませんか? あるいは抑圧された時代には、それに耐え未来に希望をつなぐような詩が、ひそかに読み継がれたりしませんか? 詩というのはいつも、ひとの裸の心から直接放射する何かをもっていて、それが時代の孕むエネルギーと共振するような気がします。詩の熱さは時代の熱さ。違っているでしょうか。

茨木のり子さんの訳編による『韓国現代詩選』には、いかにも個性的な詩人たちが多く登場します。ただ、ひとり、茨木さんも特に一文(「尹東柱について」、『一本の茎の上で』所収)を草しておられた尹東柱(ユンドンヂュ)の紹介はありません。これは、伊吹郷さんのお仕事に敬意を表してのことかもしれませんが、ちょっと残念でした。日本に関わりの深い詩人であっただけに、とりわけ。

この詩選で紹介された一二人の詩人の中で、ことに印象深かったのは姜恩喬(カンウンギョ)の作品で、「林」「眼」など四編の詩が訳されています。印象としては、高良留美子さんにも似た造形世界、でしょうか。茨木さんは解説で、「わかりやすい言葉、具体的なイメージ、抽象化の能力」と手際よく説明されていますが、まさしくその通りで、深く澄んだ世界がなんのこだわりも紛れもなくストレートに読者の心を吹き抜けてゆきます。この爽快さこそ、詩を読む楽しさじゃないのかな。心を浄化しつつ、彼方に連れ去ってくれる爽快さ。

ほかにもすてきな詩人、すてきな詩がたくさんたくさん。日本の現代詩はどうもなじみにくいと日頃詩から遠ざかっている人たちにこそ(じつは僕もそう)ぜひ一度手にして欲しい。それがこの『韓国現代詩選』です。きっとお気に入りの詩に出会えると思うんですけどね。日本の詩のアンソロジーである『詩のこころを読む』とともに、この一冊をぜひ傍らに。

  • 『韓国現代詩選』、花神社、1990年11月
  • 『一本の茎の上に』、筑摩書房、1994年11月
  • 『ハングルへの旅』、朝日新聞、1986年6月

はじめての町

合唱組曲「はじめての町」の初演に立ち合ってきました(一九九九年十二月十二日、鶴岡市文化会館)。茨木のり子さん作詩、佐藤敏直さん作曲によるこの作品は、鶴岡市が市制施行七十五周年を記念して制作を委嘱したもの。期待を裏切らない、すばらしい仕上がりです。

「はじめての町」は、茨木さんの書かれた八編の詩で構成されています。「作詞」ではありません。自らのリズムを持って息づく、「詩」という形式の、言葉による造型世界を提供されたのです。そして作曲を担当された佐藤敏直さんは、よくそのメッセージを、奥深い優しさを、知的なユーモアを、しなやかにして強い硬性感を咀嚼して、音に置き換えられたと思います。

佐藤さんの書かれた文章を読み、指揮台に立たれる佐藤さんのお姿を拝見していると、彼がいかに茨木さんを敬愛し、詩人の世界に誠実であろうとしているかに、あらためて気づかされます。幸福な出合い、というべきでしょうか。

「はじめての町」を聴きながら、ぼくたちは四季に彩られた日本の小さな町々をそぞろ歩きます。そこはもちろん桃源郷ではないのだから、デニムのズボンがぶら下がってもいれば、砂ぼこりにまみれてもいる。ちゃちな町だね。変わりばえしない町だ。

「それでもわたしは十分ときめく」のは、そこにもやはり、人びとの日々の暮らしがあり、出会いがあり、別れがあるからでしょう。

その積み重なり、あるいはそのねじれが、この組曲全体を統べる堂々たる風格の第一曲(はじめての町)にも歌われた、その町の「ほくろ」、その町の「秘密」、その町の「悲鳴」なのかもしれません。

そして精妙なオーケストレーションが会場をわかせたのが、第三曲(夏の星に)。日本風の調べを持った静かな第二曲(さくら)の後だけに、軽快にして優美な旋律は実に効果的でした。御法度だけど、ブラボーの声もあがったりして。実は僕もひそかにアンコールを期待した曲だったのです。

しかし、佐藤さんがアンコールの拍手に応えて選ばれたのは、第六曲(秋)でした。「秋」と題する詩は、茨木さんが佐藤さんの懇請に応えて新たに書き下ろされた、合唱組曲「はじめての町」のためのオリジナル。その意味では、茨木さんがぼくたち鶴岡市民にプレゼントして下さった詩でもあるのです。短いけれど、鶴と白鳥と里の人々が共生する、ふるさとのうた。ぼくたちの宝物になりそうです。

さらには素晴らしいハーモニーを聴かせてくれた鶴岡土曜会混声合唱団と県立鶴岡南高等学校音楽部のみなさんにも、深い感謝を捧げなければ。さすがに国内トップレベルの実力ですね。下手ながら、ぼくも一緒に歌いたかったなァ、なんて思ったりして(ぼくが在学中の時は、音楽部はそんなに有名じゃなかったゾ)。
また、素人が生意気なことを言うようですけれど、山形交響楽団のアンサンブルも見事なものでした。音に厚みがあるし、第一部に披露されたモーツアルトの序曲や交響曲だって、久々にナマのオーケストラの音を聞いた、という感じで、楽しかったですよ。

この組曲に取り上げられた茨木さんの詩については、過日の地元紙(荘内日報)で戸村雅子さんが丁寧に紹介されています。この一文は全体が良質の「茨木のり子入門」にもなっていますから、ぜひご一読をお勧めしたいですね。

慈母観音にも似て

いつもよりいくらか日数がかかってインターネット書店から届いた、茨木のり子さんの最新詩集『倚りかからず』(筑摩書房)。その奥付を見ると、第二刷とあります。

最近すっかり新刊情報に疎くなってしまっているぼくが、この本の発刊を知ったのはある新聞のコラムを読んでのこと(河北新報だったと思うのだけれど、あるいは朝日の天声人語だったかもしれない)。それにしても、一刷から何日も経っていないのに、もう二刷。びっくりしました。こんなに売れてるなんて。

書評や新刊紹介のページに取り上げられることも多くて、とりわけ茨木さんらしさを感じさせる「倚りかからず」「時代おくれ」などが、よく例に引かれます。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない

の二行ではじまり、

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

で終わる「倚りかからず」。しゃんと伸びた背筋の美しさ。叙情ではなく知性で紡いだ言葉の爽快さ、そして堅固さ。そのすぐ隣り合わせに、じつは深い孤独が覗かれるのだとしても、むしろそれがゆえの深さを蔵しつつ、彼女の言葉は枯れ果てることのない心の源泉からどくどくと湧き出でて読者の胸に届く……そんな感じがします。ナントカ教やナントカ・セミナーがらみのワケノワカラナイ(本当にわからない! それが怖い)事件にかきまわされる昨今、なおさら身にしみますよね。

もっとも、茨木さんのシャキっと伸びた背筋に感嘆するあまり、彼女を人生の闘士扱いしてしまったのでは、正しい受け取りかたとはいえないのかもしれません。いや、闘士然とした作品も、もちろんあったのですがね。

たとえば、「自分の感受性くらい」(『自分の感受性くらい』所収)。ここでは、彼女は自分で自分を守ることもできない不甲斐ないぼくらを、ドンとどやしつけてくれます。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
(略)
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
(略)
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

この作品は、彼女自身への応援歌でもあるのかもしれません。でもハッとしますよね。「ばかものよ」と決めつけられては。といって反論も難しく、弁明するもまた恥とあっては、敬して遠ざける結果になりかねません。事実、とりわけ男たちによる茨木評には、おおむねこの辺りに起因するかと思われるよそよそしさが、少なからず見受けられるのです。

しかし、茨木さんの詩を本当に愛する人たちは知っています。彼女の作品世界はけっして硬直してなんかいない。それは意外なほどにしなやかで、また滋味に溢れ、鮮やかで品のよいユーモアが私たちをおおいに愉しませ、心を潤してくれるということを。

『倚りかからず』でも健在でしたよ。シャンとしたユーモアは。たとえば、「鄙ぶりの唄」……じつのところ、この詩もかなり強烈な主張を持った作品ではあるのですが。

なぜ国歌など
ものものしくうたう必要がありましょう

と、腹黒の過去を隠しもつ「国歌」に疑問を呈し、

私は立たない 坐っています

と、自らの姿勢を宣言する。決してナマることのない、キリッとした精神の形。ぼくのような軟弱な男には眩しすぎるほどの茨木さんの姿勢が、ここにもあります。しかし、それ以上に印象的なのが、

それぞれの土から
陽炎のように
ふっと匂い立った旋律がある

と、それこそ薫り高く匂い立って心を揺らす初めの三行であり、

演奏なくてはさみしい時は
民謡こそがふさわしい
さくらさくら
草競馬
アビニョンの橋で
……

と続く、いかにも楽し気にだれもが知る日本の歌、世界の歌を並べたてるくだりなのです。こんな書き方をしていいのかな。国体護持を金科玉条とするカタい人たちなら、青筋たてて怒りだしかねませんよね。茨木さん、嫌がらせの電話など、ありませんか? 街宣車が走り回ったりしません?
ところが茨木さんは、そんな心配などどこ吹く風。最後は踊り出しちゃいましたよ。

八木節もいいな
やけのやんぱち 鄙ぶりの唄
われらのリズムにぴったしで

お見事! としか言いようがないではありませんか。この自在さは。

ぼくはこれを決して「茶化し」だとは思わないのです。もっと自然で、もっと自由な心のありようだと思うのです。また、ここにあるものは「四海波静」(『自分の感受性くらい』所収)に張りつめる憤怒とも違うのです。もっと深くゆったりしたものなのです。

自らの姿勢は凛として保ちながらも、「ばかものよ」という叱責よりさきに、またどす黒い吐血よりもさきに、やさしさの極北を示すマザー・テレサの瞳が、アネハヅルの無垢ないのちの無数のきらめきが、まっとうとも思わずにまっとうに生きているシッキムやブータンの子らの襟足の匂いがまず、感じられてならないのです。

茨木さんには叱られるに違いないけれど、詩集『倚りかからず』の頁を行きつ戻りつしながらぼくがそこに見い出すのは、慈母観音にも似た彼女の優しい眼差しです。もしそうでなかったら──もちろんぼくもその中の一人にすぎないのだけれど──日々の生活に追われこれほどにも疲れ切っている凡百の現代人が、競ってこの詩集を手にするはずがないではありませんか。

茨木さんの意図が何処にあるにせよ、この一冊の詩集は、難しい時代を生きるぼくたちに、いささか手垢にまみれてしまった感のある言葉ではあるけれど、ある種の「癒し」を与えてくれます。

あるいはそれは励ましであるのかもしれず、さらには、遥かに遠くかつ深いものへの憧憬と飛翔の夢、なのかもしれません。

木は
いつも
憶っている
旅立つ日のことを
(「木は旅が好き」)

「放浪へのあこがれ」「漂泊へのおもい」に身を捩っている木は、たぶんぼくだな。……そして、あなたもまた?

  • 茨木のり子『倚りかからず』、筑摩書房、一九九九年十月

訃報を聞く

そう遠くない日に訃報を聞く事になるだろうと、覚悟はしていたのです。朝、新聞を開くと、かすかに不吉な予感を抱きながら社会面に目をやる朝が続いてもいたのです。
しかし不覚でした。それは突然やってきました。まだエアポケットから完全には抜け出せずにいたぼくの前に、茨木のり子さん逝去の記事が。
角田光代さんは、「歳月を経る」とは出会うこと、と教えてくれました。然り──されどまた、歳月を経るとは、失うことでもあったのです。
当然のことなのでした。人生の半ばを過ぎた今、失うことの多い、失う人の多い朝は、止むことがないのです。
昨夜から『茨木のり子集 言の葉』(筑摩書房)を読み返しています。失ってしまった茨木さんと出会うために。そうして、失った歳月を少しでも、出会う歳月とするために。(06/02/22)

茨木のり子さんを失って

このたび私……この世におさらばすることになりました。これは生前に書き置くものです。……「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出してくださればそれで十分でございます。(朝日新聞、3月21日付)
こんなふうに、茨木のり子さんはこの3月の初め、親しい友人・知人に手紙を書き送ったといいます。いかにも茨木さんらしいなぁ。彼女の死は孤独死と伝えられ、なるほどカタチとしてはその通りなのだけれど、その作品に親しみ、またこのお別れの手紙を読むならば、その死が潔い運命の受容であったことを、誰しも理解するはずです。
それにしても今年、2006年は、ぼくにとって悲しい別れから始まる1年になってしまいました。1月の末に母を亡くし、2月には茨木さんが亡くなりました。またつい先日は、20年を共に働いた同僚の弔辞を読んだばかりです。共通項をあげさせていただいていいですか? それは、3人とも、命つきるまでよく生きた、ということ。
茨木さんは言わずもがな。身内のことながら、母もまた茨木さんのように身辺の整理を着々とすすめてい、また自作のパッチワークが印刷されたお別れの葉書を友人たちに書き送り、弔辞の人選まで終えていたのです。針を置く時期にも狂いはありませんでした。……そして同僚は、青春時代の夢を最後まで持ち続け、余技の範疇とはいえ現役のミュージシャンとして、いまだ夢の途中にあったのです。彼のシンセサイザーは、つましい暮らしの中に光る宝石です。
さて。寄り道しましたね。
茨木さんの訃報に接してからぼくが始めたことのひとつ──『茨木のり子集 言の葉』(筑摩書房)を読み返すこと。再読には再発見がつきもの。ぼくは結局、人々によく知られた作品、代表作だけを記憶にとどめていたのではないか。そんなことに思い至りました。けれども茨木さんの作品に愚作はないし、なによりすべての作品には、生涯を貫く強固な背骨がある。たとえば。


それはみずから立って
無慙な蛙そっくり
大地にたたきつけられることだ
そしてふたたび立つことだ
あるいは立てぬままかもしれない
(「劇」)

「倚りかからず」の作者はすでに、第一詩集『対話』に屹立しています。
ぼくが始めたことのふたつ目。旋律に乗った茨木のり子を聴いてみる。合唱組曲「はじめての町」(佐藤敏直作曲)は鶴岡市の委嘱作品であり、ぼくも初演に立ち会いました。堂々たる作品。沢知恵さんの「わたしが一番きれいだったとき」も最近聴いたアルバムです。
「詞」と「詩」は明らかに違うので、そして茨木さんの詩は谷川俊太郎さんのような「軽やかさ」「リズム」を持ち味とはしないので、正直なところ、楽曲になった茨木さんには違和感が伴います。しかしこのあたりの感想は、もう少しいろいろな作品を聴いてからにしましょう。
ともあれ、茨木のり子と出逢う旅がぼくの中で新たに始まっています。ぼくが守るべきものを守り、見るべきものを見、対峙すべき時は対峙することをやめないかぎり、旅は続くことでしょう。倦まず弛まず、歩み続けなければなりません。(06/03/24)

● 茨木のり子(本名三浦のり子)。2006年2月17日、くも膜下出血にて死去。79歳。

茨木さんの散文

ぼくの一番好きな、詩人・茨木のり子さんのお仕事(作品)が、じつは『詩のこころを読む』(岩波書店)だったりします。ご自身の詩は一編も収められていないけれど、さまざまな詩人の作品を紡ぎ、紛う方ない茨木さんの詩の世界を織り上げる、その手際の鮮やかさ。
この本は全体が人生を謳い上げる詩になっています。だから、ぼくは今までにも何冊か、卒業あるいは進学・就職のお祝いとして、子供たち、甥っ子たちにプレゼントしてきました。視界がはるばると拓けていく本ですから。
面妖な大人社会の入口に立つ青少年にとって、またそのころの「感受性」を失うまいと願う大人たちにとって、『詩のこころを読む』は生涯の羅針盤、あるいは清水を組み上げる井戸となるに違いありません。
茨木さんの散文は素晴らしい。毎日『茨木のり子集/言の葉』(筑摩書房)を読み返していて、つくづくそう思います。
深澤忠孝さんも「現代詩手帖」(思潮社)の「茨木のり子追悼特集」で触れておられますが、「はたちが敗戦」の中の、「二十五年間を共にして、彼が癌で先年逝ったとき、戦後を共有した一番親しい同志を失った感が痛切にきて虎のように泣いた」という一節。「虎のように」とは、なんと激しい、傷みに満ちた表現であることか。後を追いたいと綴り、生きていたくないと話していた彼女の生身の悲しみが、簡潔であるがゆえの痛切さで迫ってきます。詩人ならではのエッセイ。
ところで、深澤さんは〈茨木さんも鶴岡にある夫のお墓に入られるはず〉と書いておられました。たとえお骨になったとしても、彼女が近くにいてくれるのは、ぼくにはとてもうれしいこと。倚りかかるつもりはないけれど、見守ってくれるということは。
それにしても茨木さん。「寂寥だけが道づれ」の日々がようやく終わりましたね。あなたのたたかい、あなたの浴びた返り血が無駄にならないよう、ぼくは生きたい。(06.04.02)

茨木のり子における「潔さ」についての一考察

自分史がブームと聞きます。でもこれって、男の書き手が多いのではありませんか? 仮にそうだとして、男が自分の足跡を残したがるのには、相応の「男の事情」がありそうです。
思うに、男にはどうしても女にかなわない一点がある。それが子を成し子孫を残す、ということ。男にも応分の役割分担はあるはずだが、なにせ実感がない。あるいは確信が持てない(こともある)。だから、なんとか実感の持てる、確信ある分身を、後に残して死にたいと願うのでは?
子孫を残せる女性の強みは圧倒的だけど、またこんなワケもあるかもしれない。女は故郷を離れ、別の価値観を我がモノにする生き物だということ。もちろん日本という小さな社会に限っても母系性の土地柄はあったはずだし、生涯を地元で暮らす女性だって少なくないわけだが、家も土地も変わる例がやはり多いですよね。そうしてそこに新たな故郷を打ち立ててしまう、ということが。男はなかなか(離れても)故郷を捨てられないものだけれど。
つまり、女という性は左様潔いものなのです。男女の別れにおいても「女々しく」追いすがり忘れられないのは男で、「雄々しく」キッパリと捨て去るのが女というでしょう? (ご同輩、泣かないで)
すなわち縷々考察するに、女性的なるものの本質とは畢竟「潔さ」にあるのではないか。茨木のり子の詩業に則して言えば、『倚りかからず』に至る一連の、〈スパッとした切れ味の、剛直そうに見える、暗い翳りのようなものが無い〉作品こそが、「女性的」と形容されるべきものなのではないか。
より具体的に指摘するなら、「四海波静」や「鄙ぶりの唄」のような作品がそうそう男性詩人に書けるとは思えませんね、ぼくは。「倚りかからず」だって書きにくい──だから批判したくもなる。異議申し立ては世の中を知らないアオいボーヤのやること。いわば青春の過ち。人生色々、男は賢く波風立てず社会の要とならなければ。……嗚呼!
でも茨木さんはちっとも処世など気にしないのですね。遠慮会釈無く言いたいことを言っている。それなのにちゃんと戦後日本を代表する詩人として認知され、自活している。すぐれた翻訳詩に、すぐれたエッセイ。敬愛するファンあまた。お約束の自費出版も経験することなく、あまつさえ(詩集としては空前の)ベストセラーを出す。中身はスカッと爽やか。堂々たる正論。○○勲章など歯牙にもかけぬ。プライド高い男たちの渋面が目に浮かぶようだ。
ところがなんとしたこと、彼らもこだわりなく称賛できる(と錯覚させる)詩集が詩人の死後、思いがけず世に現れた、というワケなのだ。福音なるかな!? 詩集『歳月』。〈茨木さんも普通の平凡な一人の女だったんだな〉、〈可愛らしい〉、なんて上から目線の呟きが漏れ聞こえたり、あるいはも少し高尚に〈これまで閉ざしていた無意識下の一部をパーソナルとして言語化した〉などともっともらしく評してみたり。みっともないなァ。
「男の方が、だらしないと思うわ」と、彼女はしばしばいう。かつて彼女とも近い路線をとるとみえて、生きのよかった男たちが、あるいは自己崩壊し、あるいは風化し、転向あいつぐ中で、のり子ひとり「いちど視たもの」に揺がず、毅然と信条の首筋をたてつつ往く。颯爽たるかな。(堀場清子「あらゆる君主すてる旅路──茨木のり子の出現」)
男たちよ。いくら泣いているからといって、『歳月』の中に女性的なるものを見つけたつもりになって、ホッとしている場合ではないよ。だから男はダメなのよと呆れられるのがオチだって。猛省しよう。(11.02.01)

茨木のり子の家と茨木のり子展を訪ねて

六月二十一日土曜日。朝七時五分。鶴岡駅で待ち合わせた「茨木のり子六月の会」の仲間二人と、特急「いなほ4号」に乗り込む。世田谷文学館で開催の「茨木のり子展」見学予定メンバーは計七名。行路帰路はそれぞれの都合に合わせて、となっている。だから、ぼくの道連れはとりあえず二人。元気な女子二人と少々くたびれ加減の男子一人の計三人で、これから都会の喧騒の中に分け入ることになるのだ。
新潟で「とき314号」に乗り換え、終点の東京駅には十時四十三分着。そこから中央線快速で吉祥寺へ向かう。吉祥寺には茨木さんご贔屓のレストランがあると聞く。せっかくの上京、そしてせっかく「茨木のり子の家」を訪う機会が得られたのだし、この際恥も外聞もなく追っかけに徹することにしよう。
吉祥寺の町は噂に違わず、若者で溢れていた。ときに流され、ときに圧力を受けながら、ぼくたちはスマホの地図片手に街をうろつく。いや、疲れるね。人口密度が高すぎますって。しかも彼ら、彼女らはそれぞれが何かを求めて移動する気配で、攻められているような気がする。
吉祥寺は右に左に小路が伸び、様々な店が軒を連ねる町らしい。少なくとも駅周辺はそのようで、「Le Bon Vivant」はそんな小路の一角にたたずんでいた。派手な看板などはもちろん無く、瀟洒な雰囲気が南欧料理の店にふさわしい。
なるほど茨木さんが好まれそうなお店だなぁと思い思いしながら奥まったお店のドアを覗き込み、けれども土曜は夕方からの営業だったので食事はあきらめ、近くのカフェでランチをとる。
十二時五十四分。タクシーを拾って「茨木のり子の家」に向かう。東京でタクシーは贅沢? でも直線距離は意外に近いし、二千円でお釣りが来る計算だ。割り勘なら電車を乗り継いでいくのとさほど変わらず、要する時間は圧倒的に短い。
静岡出身という気さくなオジさんドライバーの地域情報を聞きながらおよそ十六分。東伏見にある「茨木のり子の家」付近に到着した。
約束の時間までは、まだ早い。ぼくたちはとりあえず家の場所を確認。少し付近を散策することにする。
「家」の前は緩やかな坂道になっていて、そのまま上がって行くと下野谷遺跡公園に突き当たる。おそらく調査後に縄文人の居住あとを壊さないように埋め戻して保存し、一部にはコナラやクリなどといった縄文の木々を植栽したのであろうこの公園には、往時を再現したミニチュアの住居模型も置かれていた。
草原のような公園に佇んでいると、遠くから歓声が聞こえてくる。スポーツ観戦だろうか。声に誘われ公園を横切って北側から狭い階段状の道を下る。ぼくたちが下り立ったのは、東西に流れる川の岸にそって伸びる遊歩道だった。そこは右からカーブを描いて下ってくる道路と交わる地点でもある。その道路が東伏見駅に至る道なのだ。
歓声は川の向こう岸にあるサッカー競技場から聞こえてきた。橋を渡ると向こう岸一帯は、サッカー場や野球場など、早稲田大学のスポーツ施設が集約された東伏見キャンパスになっている。その広大なキャンパスの真ん中を道路が走っているのだ。

Yと駅前まで散歩。Yは、早大グラウンドでやっていた野球をみて帰るというので、駅前で別れる。(1962年6月17日の日記)

ぼくたちは橋を渡り、綺麗に整備された早大キャンパス側の遊歩道を少し東に歩いて馬術部の厩舎などを覗いてから、頃合いを見計らって再度「茨木のり子の家」に向かう。
約束の時間より十分ほど早い訪問。少し躊躇しながら呼び鈴を押すと、最後まで茨木さんのお世話をされた甥の宮崎治さんが、にこやかに出迎えてくださった。そして入れ替わるように先客の渡辺(善雄)さんご夫妻も戸口に立たれた。お二人は今夜のイベントには参加されず、このままお帰りのようだ。それぞれにご挨拶そして自己紹介の後、ぼくたちは今日三組目の訪問客として、憧れの「茨木のり子の家」に招き入れられた。
目の前に、足下に、そしてぼくたちの頭上にも、写真集でためつすがめつ眺めた「茨木のり子の家」がある。主を失っても空間は変わらない。簡素というか、清楚というか、いかにも茨木のり子らしい空間の中でぼくたちは呼吸する。刊行された書物で言えば、そう、筑摩書房の『茨木のり子集 言の葉』全三巻(文庫本ではなく)こそが、まさにこの雰囲気を湛えているのだな。あれこそ茨木ファン必携の三巻に違いない。あらためてそう確信する。
それにしても女子というのは遠慮なく押し入り、聞き出せるものだ。にもかかわらず少しも非礼にならないのは人柄の故か、と感心しながらUさんの事情聴取(?)に同席する。メディアではそこまで詳しく伝えられなかった茨木さん発見時の経緯なども、宮崎さんからは色々と教えていただいた。
宮崎さんが淹れてくださった美味しい珈琲をいただきながらの懇談。ぼくたちは研究者ではないから、伺う内容といっては茨木さんの日常茶飯に類することがもっぱらだ。そしてミーハーなことに「家」内部の見学が楽しみだったりもする。そんなぼくたちに、宮崎さんは家の中のほとんどすべてを見せてくださった。
各部屋を順に回りながら、ぼくは茨木さんの「部屋」(『食卓に珈琲の匂い流れ』に収録)という詩を思い出していた。

今までに見た
一番美しい部屋
不必要なものは何ひとつない
ある国のクェーカー教徒の部屋

わがあこがれ
単純なくらし
単純なことば
単純な生涯

単純なくらしへのあこがれ。なるほど茨木さんは首尾一貫して実践の人らしい。一階にある洗面台は今どき地方でも珍しいタイル貼りのもの。新築時から換えていないのだろう。キッチンのコンロは、これも最近では珍しくなったグリルも付いていない二口のもので、なんとセメントのブロックを2段に積み上げたその上に置かれている。こんな慎ましやかなキッチンから、玄人はだしの料理が次々と生み出されていったのか。

アルバイトの朝日新聞のブックレビューに追われる妻に「書評家になってしまっては駄目ダゾと」注意をし(1957年2月7日)、家計のための内職を相談した際には、「もっと真剣に勉強して自分の道を開拓しろ、よそごとに精力を費やすなと」Yに反対され、正論が痛いが、ありがたく感じたとある(1962年8月31日)

茨木さんの夫君の安信さんは勤務医だったが、敗戦後の暮らしは等しくみな倹しいものだったはずだ。茨木のり子の家は昭和の建築らしく安価なラワン材が多用されていて、オシャレで合理的ではあるけれども、むしろ質素とさえ言えるものだ。その暮らしぶりは後年『詩のこころを読む』や『倚りかからず』などのベストセラーを生み出すようになっても変わることはなかった。「単純なくらし」「単純なことば」「単純な生涯」は彼女の哲学だから、変わり様がないのだ。茨木のり子の家は、茨木のり子の詩そのものだ。
14時50分に「家」を辞し、東伏見駅に向かう(宮崎先生。当直明けでお疲れのところ、本当にありがとうございました)。徒歩11分。次の目的地は世田谷文学館になる。しかしひとまず新宿西口付近にとったホテルに立ち寄り、チェックインを済ませて荷物を置くことにする。そのため少し予定より遅れて世田谷文学館到着は16時55分だったが、京王線芦花公園駅から文学館までの道のりはとても快適で、時間さえあればもっとのんびりと歩きたい街だと感じた。小売店のひしめく吉祥寺より、文学館が佇むこの街のほうが、ぼくには良いな。
最終日が近いせいか、あるいは週末のせいか。「茨木のり子展」の会場は賑わっていた。美術展とは違って文学関係の展示はどうしても地味なものだ。それなのに、会場内は人、人、人。茨木さんは、やっぱり愛されている。
ぼくたちは本物の「家」を見てきたし、過去の展示である程度の資料は目にしているので、少ない時間を有効に使おうと会場内をおのおの端折って見て回る。丁寧に構成された展示は、やはり愛そのものだ。
午後五時半。沢知恵さんによる弾き語り「りゅうりぇんれんの物語」の入場受付開始がアナウンスされる。六月の会のメンバーも此処で揃った。
ホールはたくさんの聴衆で埋まり、午後六時、照明が落とされ暗がりとなった中を、ピアノに向かってゆっくりと歩を進める沢さんの姿がかすかに認められた。沈黙と静けさが会場を包み込む。──と、突然スポットライトが沢さんを照らしだし、「りゅうりぇんれんの物語」が語り出された。力強く、くっきりと。
それにしても淀むことなく、噛むこともなく、ライブであそこまで完璧に弾き語るとは、どれほどの肉体的、精神的、時間的質量を、彼女はこの長編詩に捧げたものか。彼女の真摯な姿勢、りゅうりぇんれんの過酷な人生とそれを真正面から受け止めた茨木のり子への深い敬意が支え続けた、濃密な七十分。
公演が終わり、文学館を出て一行七人で芦花公園駅へ向かう道のりは、意外にも心地よいものだった。たとえば「りゅうりぇんれんの物語」が単なるルポルタージュ作品であったなら、ぼくたちは容易に咀嚼できない重苦しさを抱いたまま、会場を後にしたかもしれない。けれども茨木のり子は詩人だった。
茨木さんは前出の『詩のこころを読む』のなかで、最後の四行がとても印象的な濱口國雄の「便所掃除」と題する詩を紹介しつつ、「言葉が離陸の瞬間を持っていないものは、詩とはいえません」と書いている。

「便所掃除」は散文的な言葉のつみかさねからおしまいに、もののみごとに飛翔し、誰の目にもあきらかな離陸をやってのけている

また茨木さんは、おそらく同じ意味合いのことを石垣りんの「くらし」という鮮烈な作品を引きながら、「浄化作用(カタルシス)」と表現してもいる。

浄化作用(カタルシス)を与えてくれるか、くれないか、そこが芸術か否かの分れ目なのです。だから音楽でも美術でも演劇でも、私のきめ手はそれしかありません。

長編詩「りゅうりぇんれんの物語」の最後はまさに飛翔だ。いみじくも過日の読書会(於、鶴岡市)で「一番言いたかったこと」と指摘されたように(先月号掲載記事参照)、「交わされざりし対話」を自分の言葉で埋めていくこと、目を背けることなくなくそれを希求することこそが、彼女の願いだ。そしてその願いがぼくたちに受け継がれ、一筋の道がぼくたちの前に拓かれていく時、ぼくたちは救われるに違いない。これをカタルシスと呼ばずして、なんと呼ぶ?

新宿駅。午後八時二十八分。密度濃い一日が終わろうとしている。よく歩いたし、よく見聞きしたし、よく話をした。よく人混みにも耐えたよね。打ち上げの時来たれり。土曜夜のワインカフェは空いている。乾杯しよう。大都会の只中で。(2014.7.12)

  • 文中、茨木のり子の日記に関わる引用は『茨木のり子展 図録』(世田谷文学館)から。また『詩のこころを読む』からの引用は、同書の電子書籍版(Kinokuniya Web Store)によるものです。

キガカリであったか、なかったか

キガカリな毎日です。何がと言って政権与党の政策や個々の政治家の言動もあるけれど、なにより「歯止めの無さ」。なし崩しに、ズルズルと、歯止めなくいずこへか進んで行く、否、後退して行く濁流のような何ものか。ここに至ってさすがに、長く政治への無関心を腐す声に晒されてきた若者たちによる抗議の声が各地で聞かれるのは希望としても──。
はてさてそんなこんなの日々、鬱々たるぼくにネジを巻いてくれるのはやっぱり茨木さんだよね、とマゾな期待を胸に劇場の椅子に身を沈めたぼくの前に現れたキガカリは、しかし必ずしも怠惰なぼくを叱ってはくれなかったか。
松金よね子さん演じるノリコは、他の二人(典子と紀子)から「キガカリ」と呼ばれている。ぼくたちに茨木さんの記憶はまだ生々しい。だから作者の長田育恵さんも書いておられたように、どんな名優も在りし日のご本人を映すことはできない。さすれば、のNoriko三分割はなるほど工夫。批判的な言辞のNorikoもいて詩人の立ち位置を相対化してくれる。うまいなぁ、と思いながら、でもやっぱり結果として、茨木のり子の造形は今ひとつクッキリとしなかったのでは。会報第四十八号では高樹陽子さんが、「私には最後まで、麗さん、よね子さん、美也子さんに見えた」と的確な感想をお書きでしたが。
そんなこともあってか劇中、一番印象的だった登場人物は岸田葉子(敢えて衿子ではなく)でしたね。全体の狂言回しは吹抜保(夏蜜柑の樹の精でもあり、時に夫でもある)だとして、しかし劇の後半は岸田が「女にしか書けない詩をなぜ書かない」とノリコを問い詰め、エンディングまで引っ張っていく。ファッションと合わせ、かなり強い造形ですな。でもこれ、本当は谷川俊太郎さんの言葉ではありませんか?
谷川さんは劇の前半に実名で登場します。にもかかわらずキツイ台詞を谷川さんではなく岸田に言わせたのは、単純な男女対立になるのを嫌ったか、あるいは谷川さんの視点が表に出過ぎるのを避けたのか。それでも十分に岸田葉子は弁じ、最後は彼女の主張にも適う詩集『歳月』の草稿を手にして涙する展開。うーむ。
岸田葉子の台詞では他にも、ニヤリ(あるいはヒヤリ)とさせるものがありましたよ。彼女がミューズと謳われ男性に好かれたのは、〈劣っているから。中途半端だから〉。ぼくは瞬時に、「茨木のり子はミューズではなかった」という、とある同人の証言を思い出しました。平安の昔から小さきものは美しく可愛いが、茨木さんは誰と比べても一切劣っていませんからね。そんな完璧で近寄りがたい(?)茨木さんが一人の男性に恋焦がれ、悲しみに打ちひしがれ打ちのめされ、組み敷かれる様を赤裸々に綴った『歳月』の発見は、ある意味、特に男性ファンをホッとさせる「事件」だったのかもしれません。
でもね、ロックミュージシャンのTKさんが「ダ・ヴィンチNEWS」で語っていたように(http://ddnavi.com/interview/225054/)、「茨木さんの『歳月』で書かれている詩は、作品というよりも美しいままの純粋な思いで綴られたラブレターの様なもの」なんです。
詩集『歳月』は、茨木のり子の流儀から外れた詩集です。だから、刊行当時に聞かれた議論で言えば、「らしくない」詩集。彼女が信条としたダイアローグはほとんどなくモノローグで語られ、また詩の条件としたはずの飛翔(カタルシス)もなく、悲しみに終始する。茨木のり子は最後まで立ち上がらない。だから、「らしくない」。
でも良いのです。これはラブレターなのだから。ラブレターだから、誰からの批判も、あるいは賞賛もまた無用と、彼女は言うに違いありません。劇中にそんな台詞もありましたね、確か。
それに、「らしい」か「らしくない」かは別にして、この詩集には結晶のように美しい一瞬が封じ込められているのも事実なのです。たとえば「橇」──雪も止んで静謐な世界、そして「蒼い月明のなかを」「ひたばしる橇」。犬橇に乗るのり子とその傍らを走る夫の足音、夫の吐息。鮮やかに描き出された映像として、ぼくのなかで折に触れて再生されています。この澄明な美しさは詩を超越している。
とまれ、茨木さんはここでは亡き夫・安信さんしか見ていないし相手にしていません。だからこそ思うのです。草稿が見出されるかどうかが、キガカリであったか無かったか、と。(2015.10.01)