Évangélineの周辺

1 はじめに

きっかけはアニー・ブランシャール(Annie Blanchard)の歌う「エヴァンジェリーヌ」(Évangéline)でした。
iTunes storeではおせっかいにも、それまでのダウンロード履歴を解析しつつオススメ曲なるものを適宜通知してくれます。「エヴァンジェリーヌ」はそのようにしてぼくの前に現れ、ぼくを魅惑したのです。CDのジャケット写真に相当するアートワークのポートレートは憂愁を帯び、若い女性(ブランシャール自身でしょう)がもの思わしげにに窓辺に佇んでいます。まるでフェルメールの世界のように。
すぐさまダウンロードしてじっくり聴き入ってみると、これはありきたりの流行歌ではありません。エヴァンジェリーヌという名の女性を歌ったものようだけれど、なにかそこには歴史的な背景があり、実在の人物でもあるかのようにも感じられたのです。
さっそくWeb情報を探りわかってきたのは、「エヴァンジェリーヌ」がフランスのシンガーソングライター、ミシェル・コント(Michel Conte)によって書かれ(1971年)、はじめケベック出身の歌手イザベル・ピエール(Isabelle Pierre)によって歌われたものであること。その内容はロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow)の長編詩「エヴァンジェリン」(Evangeline)のストーリーに沿うものであること。そして舞台はアカデイ(Acadie)、今のカナダ東部、ノヴァスコシア、プリンス・エドワード島辺りであること、などでした。
ノヴァスコシア? プリンス・エドワード島? これは、ぼくの愛読する赤毛のアンの世界ではないか。
思い返せば、モンゴメリ(Lucy Maud Montgomery)の『赤毛のアン』では、なぜかフランス人が侮蔑的に扱われていたのでした。

あの、まぬけの半人前のフランス人の小僧どもぐらいじゃないの、雇おうと思えば。(村岡花子訳『赤毛のアン』新潮文庫、11頁)

村岡訳では特に触れられていませんが、完訳を謳う松本侑子訳(集英社文庫)にはさすがに詳細な訳者注が用意され、この点について以下のように解説されています。

『アン』シリーズにおいて、フランス系は、ほとんど使用人として描かれる。島の歴史を見ると、七年戦争下の一七五八年、イギリスがフランス軍の要塞を破って、プリンスエドワード島は仏領から英領となった。その時、フランス系住民の多くが島を去る。(略)このような事情から、島にはイギリス系住民によるフランス系住民蔑視の風潮があった。(松本侑子訳『赤毛のアン』集英社文庫、452~453頁)

「フランス系住民の多くが島を去る」? これは、彼らが自主退去をしたということだろうか? そうではないだろう。それほど単純な話ではないから、エヴァンジェリーヌが世に生まれ出でたに違いない……。

2 ミシェル・コントの「Évangéline」

「エヴァンジェリーヌ」を作詩作曲したミシェル・コント(1932.7.17 – 2008.1.5)は、フランス・ガスコーニュ地方に生れています。パリに出てピアノと作曲を学び、1955年からカナダ・ケベック州に活動の拠点を移してテレビやステージでキャリアを積み重ねました。
ケベック州といえば誰もが知るフランス語圏。けれどもケベックとアカディは別の歩を辿っていて、アカディアンの存在を知らないケベック人も多く、コントも生前テレビのインタビューで”Les Québécois ignoraient l’existence de l’Acadie.”と語っているほどです。
「エヴァンジェリーヌ」の発表は1971年のことでしたが、その後90年代にはMarie-Jo Thérioの歌唱でふたたび世に出、そしてぼくが繰り返し聴くことになるアニー・ブランシャールによるバージョンは2006年にリリースされ、その年のthe 2006 ADISQ award for “Most popular song”(la catégorie Chanson populaire de l’année au gala de l’ADISQ)に選ばれている──それを12年まで知らずにいたのだから、なんとも迂闊なことでした。
インターネット情報から推察するに、ミシェル・コントの「エヴァンジェリーヌ」はアカディアンたちの集まりには欠かせない民族の歌として歌われるようになっているようです。このことには、この曲の持つ親しみやすい叙情的な旋律がヒーリングミュージックとして受け入れられている側面もあるでしょう。つまり声高なプロテストソングではないのです。しかしだからこそ時代や年代を超え、立場を超えて歌い継がれ、聞き継がれて来たのでないか、そんな気がします。
とはいえ、21世紀の極東に住むぼくが踏みこんでしまったように、この優しいシャンソンにだってアカディアンたちの過酷な歴史を辿る旅への導火線としての役割は果たせるのです。またそのように現実の上に立っているからこそ、情感が惻々とせまってくるのかもしれません。
アカディアンの琴線に触れるシャンソンとなった「エヴァンジェリーヌ」。その誕生のきっかけとなったロングフェローの手になる物語詩「エヴァンジェリン」誕生の経緯とは、いかなるものでしょうか。

3 ロングフェローの「Evangeline」

ダンテの「神曲」をアメリカで初めて翻訳した人物でもあるヘンリー・ワズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow, 1807.2.27 – 1882.3.24)は、アメリカ合衆国の詩人。メイン州ポートランドで生まれ育ち、後半生の45年間はマサチューセッツ州ケンブリッジで過ごしました。
1826年から1829年の間ヨーロッパ(イギリス、フランス、ドイツ、オランダ、イタリア、スペイン)を旅し、帰国するとボードンでは初めての現代言語学教授に就任。1836年にはハーバードの教授職に就いています。
ロングフェローが物語詩「エヴァンジェリン」を書くきっかけを作ったのは、彼のカレッジ時代からの友人Nathaniel Hawthorneと、その知人の牧師Horace L. Conollyでした。

一八四〇年のある日、ホーソーンは知り合いのボストン・セント・マチュー協会付き牧師コノリー師を伴ってロングフェローの家に食事に行き、その席でコノリー師がある教区民の女性から聞いたとして、次のような逸話を語る。一七五五年、一組のアカディの若い男女が結婚式を挙げようとしていたまさにその日、村中の男たちが教会に閉じこめられ、そのまま追放される。娘は婚約者を捜してニューイングランド中をさまようが果たせず、晩年にようやく再会できたとき、男は臨終直前で、彼の死の直後に彼女自身も息絶えた……というのである。(大矢タカヤス『地図から消えた国、アカディの記憶』書肆心水、259頁)

感動したロングフェローは、しばらくノヴァスコシアの歴史を勉強した後「Evangeline」を書き上げ、1847年10月に刊行しました。直後から反響は大きく、版を重ね、また各国語に翻訳もされたようです。
詩の内容はおおむねロングフェローがコノリー師から聞いた話に沿っています。1755年の大騒動(le Grand Dérangement)で故郷のグラン・プレ(Grand Pré)を追われた若きアカディアンのエヴァンジェリンとガブリエル(Gabriel)。村人が集う祝宴のさなかに彼らは離れ離れとなり、エヴァンジェリンはガブリエルを探してアメリカ中を探しまわるが運命のいたずらもあってどうしても彼にたどり着くことができない。ようやくフィラデルフィアのホスピスの一室で再会できたとき、ガブリエルは彼女の腕の中で息絶えた……。
北米東部大西洋岸のアカディ、現在のノヴァスコシア州を中心とする地域の史実を背景とした酷薄なストーリーを持つ「Evangeline」。ここで留意すべきは、そのテーマはアカディという地図から消し去られた楽園、そこに住むアカディアンたちを襲ったディアスポラの悲劇そのものでは無かったということでしょう。

愛は希望し、耐え、待ち続けると信ずる者たちよ、/女の献身の美と力を信ずる者たちよ、/森の松が今も唄う悲しみの伝説を聞け、/幸せの故郷、アカディの恋の物語に耳を傾けよ。(ロングフェロー『エヴァンジェリン』大矢タカヤス訳)

荒木陽子さんも指摘されるように、その狙いはむしろ〈挙式を目前に「追放」により離れ離れになりながら、婚約者との再会を信じ続けたあるアカディア人女性の「我慢強く」「貞淑」かつ「従順」「敬虔」なあり方に感銘を受け、彼女個人をモデルにした詩を書くことであり、そのために「エヴァンジェリン」と「ガブリエル」(Gabriel)という架空のキャラクターを作り上げた〉(荒木陽子「ロングフェロー著『エヴァンジェリン』再考 ─マイエ著『エヴァンジェリーヌ二世』とのインターテクスト性をてがかりに─」、「現代社会文化研究 No.40」、2007年12月、所載)と考えていいのです。
またロングフェローが詩の背景とする、桃源郷のように美しくのどやかなグラン・プレの描写にも注目すべきでしょう。荒木さんは使われる単語の面からもキリスト教信仰との関連を事細かに指摘されているけれど、牧歌的な情景描写そのものも〈それが天国のイメージを反映していることを示唆している〉と言えそうです。
加えて、例えばフランスで画家のカミーユ・コローが田園風景を書き続けたように、当時のヨーロッパに広く見られた「田舎への回帰」──産業革命を経て悪化する都市環境に対比して田園を理想化する──の風潮へのシンパシーも、そこには投影されていたのではないでしょうか。なにしろロングフェローは外国語の専門家で、数度のヨーロッパ滞在を経験しているわけですから。
翻訳、特に仏訳について。
『エヴァンジェリン』は発表直後から大きな反響を呼び、版を重ねました。翻訳も多数出版されたのですが、最初のフランス語訳は1853年、シュバリエ・ド・シャトラン(Chevalier de Chatelain)によるものです。しかしアカディアンに広く読まれたのは、ケベックの文学青年パンフィル・ルメ(Pamphile Lemay)による1865年初版の訳の方だと推測されています。
ルメの訳は序言で自身が「Je n’ai jamais prétendu faire une traduction tout à fait littérale. J’ai un peu suivi mon caprice. Parfois j’ai ajouté, j’ai retranché parfois; mais plutô dans les paroles que dans les idées」と書いているように、翻案に近い自由訳、今風に言えば「超訳」でしょうか。「原詩になかった表現がいたるところに挿入され、時に動作や場面さえ付け加えられて」(大矢)いるのです。
こころみに、グラン・プレのアカディアンたちが監禁されていた教会から列をなして出てくる場面の描写を、大矢タカヤスさんによる日本語訳と原詩、そしてルメによる仏訳の三者で比較してみましょう。

 彼女は見たのだ、動揺で蒼ざめたガブリエルの顔を。/涙が彼女の眼にあふれ、彼に向かって夢中で走り、/彼の手をしっかと掴んで頭を彼の肩に埋め、ささやいた、/「ガブリエル! 元気を出して! 互いに愛し合っているなら、/どんな不幸が起こっても、私たちは大丈夫!」/微笑みながらそう言った彼女は突然口をつぐんだ、父が/のろのろと歩いてくるのを見たからだ。おお! なんという変わりよう!(大矢タカヤス『地図から消えた国、アカディの記憶』、54-55頁)

  And she beheld the face of Gabriel pale with emotion./Tears then filled her eyes, and, eagerly running to meet him,/Clasped she his hands, and laid her head on his shoulder and whispered,─/”Gabriel! be of good cheer! for if we love one another,/Nothing, in truth, can harm us, whatever mischances may happen!”/Smiling she spake these words; then suddenly paused, for her father./Saw she slowly advancing. Alas! how changed was his aspect!(Henry Wadsworth Longfellow『Evangeline』)

   Elle voit Gabriel! qelle étrange pâleur/Sur sa noble figure, hélas! s’est répandue!/Elle vole vers lui, frissonnante, éperdue!/Presse ses froides mains:《Gabriel! Gabriel!/《Ne te désole point! soumettons-nous au ciel:/《Il veillera sur nous! Et que peuvent les hommes,/《Que peuvent leur desseins contre nous si nous sommes/《L’un et l’autre toujours unis par l’amitié!》/Sur ces lèvres de rose, à ces mots de pitié,/Avec gráce voltige un triste et doux sourire;/Mais voici que soudain sa chaste joie expire./Elle tremble et pâlit. Au milieu des de captifs/Elle voit un vieillard, dons les regards plaintifs(Pamphile Le May『Évangéline』Deuxièm Édition)

原詩に忠実な日本語訳と装飾過多の仏訳との違いが、ほんのわずかな章句のなかにも読み取れるのではないでしょうか。

市川慎一さんによると当時のアメリカではアカディとその悲史がすでに話題になっていたようで、1841年にはロングフェローの友人のホーソーンも『アカディア住民の略奪』を刊行しているし、他の作家も同じテーマを扱った作品を発表してるらしいのです。エヴァンジェリンがたちまちのうちに話題を攫う条件は、時代の空気としても既に整っていた、ということなのでしょう。さらには翻訳、特に仏訳によって、エヴァンジェリンはおそらく作者も想定しなかったであろう拡がりをみせることになります。

4 アカディの歴史的背景

エヴァンジェリンを理解するのに欠かせないアカディの歴史は、ヨーロッパ大陸の動きに翻弄され、かなり錯綜しています。幸いぼくの前には大矢さんの労作『地図から消えた国、アカディの記憶』があり、歴史をかなり詳しく辿ることができるのですが、それでも一・二度読んだだけでは整理がつかないほど動きが激しいのです。ここでは年譜風に、同書と市川慎一さんの『アカディアンの過去と現在 ―知られざるフランス語系カナダ人』(彩流社)を参照しながら、植民当初からフランス領カナダ消滅までの歩みを辿ることにしましょう。
1604年、ピエール・デュ・グワ・ド・モン(Pierre du Gua de Monts、1568-1630頃)率いるフランス人入植者が、現在のアメリカ合衆国メイン州のサント・クロワ島(Saint Croix Island / Ȋle de Sainte-Croix)に上陸。狙いは北アメリカにおけるタラ漁、毛皮の交易で、フランス王権が領土獲得をめざして次々と個人に独占権を与えていた時期。
1605年。ド・モンは調査の範囲をさらに拡げ、ポール・ロワイヤル(Paul Royal)、現在のアナポリス・ロワイヤル(Annapolis Royal)へと拠点を移した。ヨーロッパ人によるカナダで最初の町の建設。
1608年。サミュエル・ド・シャンプラン(Samuel de Champlain)が後のケベック市を設立。
1654年8月。イギリス軍がポール・ロワイヤルを占拠。9月には対岸の拠点も押さえ、アカディの大半がイギリスの支配下に入る。勢力争いの絶えなかったこの時代のアカディの人口はまだ400人ほどでしかなくイギリス支配に変わってもフランス系住民への厳しい要求はまだなかった。
1702年。野心家のルイ14世はしばしば周辺国と争っていたが、「スペイン継承戦争」に呼応する形でアン女王戦争が北米で勃発。兵力・資金力に劣るフランス軍は敗戦を重ねる。
1710年。ポールロワイヤル陥落。2年間の猶予期間のうちに退去か忠誠宣誓を選択するという条件で、大部分の住民が残る。
1713年。スペイン継承戦争、アン女王戦争が終結。ユトレヒト条約により、フランスはアカディアをイギリスに譲渡。
これにより「ハドソン湾とニューファウンドランド島、ならびにケープ・ブレトン島とサン・ジャン島(現在のプリンス・エドワード島)を除くアカディが」イギリスに譲渡された。
これ以降主の変わったアカディアンは歴代のノヴァ・スコシア提督から英国臣民として忠誠宣誓を繰り返し要求される。一方英国の側でも自分たちの糧食を確保してくれる先住アカディアンの移動を阻む必要があり、支配者と被支配者との間で綱引きが続いた。
アカディアンの側でも、〈少なくともイギリス側が宗教や宣誓で寛やかな条件を示して引きとめようとしている限り、自ら海岸の低地を辛抱強く干拓して農地を造成し、そこで家族を増やしてアカディアンというアイデンティティを形成するまでに至った居心地の良い現状に留まろうと〉(大矢)考えた。
1730年。グラン・プレでアカディアンの忠誠宣誓。時のフィリップス総督がアカディアンに口頭で中立的立場を了承することで、アカディはつかの間の平和と繁栄を享受する。人口も増え、アカディアンは土地を求めて入植地をサン・ジャン島(プリンス・エドワード島)にまで拡げていった。
ロングフェローの『エヴァンジェリン』に描かれる牧歌的で平和な豊かさは、この頃のアカディとアカディアンたちの暮らしを活写している(当時のイギリス軍大尉の証言)。
1744年。ヨーロッパで起きたオーストリア継承戦争が北米に波及し、アカディ奪還を狙うフランスとイギリスとの争いが各地で勃発(ジョージ王戦争)。アカディアンの多くは中立を守ったが、なかにはフランス軍と行動を共にするものもいて、イギリスはアカディアンを敵視する方針に急速に傾いていった。
オーストリア継承戦争の集結で、ロワイヤル島、サン・ジャン島がフランスに返還。
1749年。イギリスによるハリファクス市設立。アイルランド人800人、ドイツ人600人を受け入れ、アカディアンに取って代わらせる政策を打ち出す。
1754年。フレンチ・インディアン戦争。
1755年。イギリスのノヴァ・スコシア総督チャールズ・ローレンスがアカディアンに強制移住命令(いわゆる「大騒動」le Grand Dérangement)。
「大騒動」で故郷を追われたアカディアンは7000人ほどといわれる。彼らは船に親子の別なしに大わらわで積み込まれ、マサチューセッツへ2000人、ヴァージニアへ1200人、もっとも南のジョージアへ400人等、英領のアメリカ各地に送り込まれた。
守る者のいなくなった家々は、非番の兵隊や水夫、他所のイギリス植民地からやってきたプロテスタントなどの略奪者の群れに襲われた。乗船を待って海岸で夜を過ごす女性たちも襲われたという。
ようやくアカディを離れた船も皆が皆目的地についたわけではなかった。そもそも各植民地当局に詳細な輸送計画が伝えられていたわけではなく、また輸送船も急きょ駆り集めた、人間をまともに運ぶための設備も準備もない間に合わせだった。なかには奴隷船のような構造の船まであったらしい。
1758年。ルイーブル陥落。サンジャン島陥落。フランス領サン=ジャン島(後のプリンス=エドワード島)が英領となり、島民5千人のうち、アカディアン三千人が強制移住させられる。
1759年。ケベック陥落。
1760年。モンレアル(モントリオール)陥落。ヌーヴェル・フランス=フランス領カナダの消滅。
1763年。「パリ条約」締結(フレンチ・インディアン戦争集結)。フランスはケベックなどカナダの領土とミシシッピ川以東アパラチア山脈までのルイジアナをイギリスに割譲し、ミシシッピ川以西のルイジアナをスペインに割譲。

こうして北米での国と国との争いは終わりました。条約締結でセント・ローレンス川流域はケベック植民地に、アカディの地はノヴァスコシア植民地に組み入れられ、「アカディという地名は地図上から完全に消滅」(大矢)したのです。
民族浄化にも等しいアカディアン追討はこの時点では未だ生きていましたが、翌1764年、イギリス植民地省の方針が「アカディアンは宣誓をするならばノヴァスコシアに留まっても良い」に転換し、強制追放はようやく公式に終了しました。
しかし彼らが戻っても彼らの農地は既にイギリス人に配分されています。こうしてアカディアンはかつての自分たちの土地で、今や日雇い労働者として働かざるを得ない屈辱の日々を味わうことになる。『赤毛のアン』の中のフランス人たちは、まさにそのような姿で登場しているのです。

5 愛される理由

前述したように、ロングフェローの「エヴァンジェリン」のテーマはアカディの悲劇ではなく、エヴァンジェリンとして創出したひとりの女性の生き方、その忍耐強く、貞淑かつ敬虔なありようへの賛美でした。
そしてその仏訳が出ると、悲劇性やイギリス軍の蛮行を強調した自由訳の効果も手伝ってエヴァンジェリーヌはアカディアン社会にたちまち広がり、アカディアン・アイデンティティの醸成に貢献したのです。
たとえばニューブランズウィック州モンクトン(Moncton)郊外にあるメムランクック(Memramcook)に創立されたばかりのアカディアン向けカレッジで「エヴァンジェリーヌ」が講じられ、またルメ訳の「エヴァンジェリーヌ」が1867年創刊の新聞に掲載されました。
さらには1887年、ノヴァスコシャア州でその名も「L’Evangéline」と題する新聞が発行され、こちらはブリュネル訳の「エヴァンジェリーヌ」を掲載しています。
じつは18世紀末から、アカディアンの地位は少しずつ向上していました。ニューブランズウィックでは1810年に選挙権、1830年には被選挙権が与えられています。そして判事や議員など、社会的地位の高いアカディアンも登場していたのです。このような時代状況下に発表されたエヴァンジェリーヌは、アイデンティティに目覚めようとする彼らをいっそう刺激し、「おそらく原作者の意図を越えた強い力を得て、アカディアンの末裔たちに新しい祖国を創り出すエネルギーを与え、いわば一種の創世神話と」(大矢)なったのでしょう。ロングフェローの創作した物語詩「Evangelin」は、アカディの神話「Évangéline」に昇華したのです。
Évangélineが現れて以降、アカディアンの親たちは生れる娘にその名を付け、またその名を冠した地名がアカディはもちろん、エヴァンジェリーヌの辿った道のりの果てにあるルイジアナにまで登場しているのですが、これらの事象は神話なればこその波及力の証に他なりません。
アカディアン・アイデンティティの象徴として愛されるエヴァンジェリーヌは一方、地球の反対側に住むぼくたちを惹きつけて止まない存在でもあります。いわばエヴァンジェリーヌにおける「愛について」──ひと言触れずには、済まされないでしょう。
まずはありていに言ってビジュアルが良い。これはなによりも、ゆかりの地グラン・プレの教会前を始め各地に立てられた像から受ける印象になるのだけれど、ピュアで、意思的で、そそる面立ちではありませんか?

十七の夏を迎える娘は見るに心地よし。瞳は、道端で茨に実を付ける木苺のごとく黒。その黒が鳶色の前髪の下でいかに柔らかに輝くことか!つく息は香しく、野で草を食む牝牛の息に似る。(大矢訳)

と詩の中でも描写されるエヴァンジェリーヌはいかにも清純そのもの。ぼくたち読者を陶然とさせるに十分だが、ただそのようにあるのではなく、前へ前へと歩を止めない、能動的な愛する人としてぼくたちを魅了するのです。
愛の本質は愛されているという状態にではなく、愛するという行為そのものにあるのでしょう。それをぼくは、たとえばフーケーの『ウンディーネ』に、あるいはアンデルセンの『人魚姫』に見いだし、裏切られても報われなくても愛しつくす、そうして最後は死によって自分の愛を全うする彼女たちの物語に愛の本質を見て、心を熱くしてきました(熱くしただけで燃やし尽くすことなく、長く消し炭だけれども)。しかしエヴァンジェリーヌは運命に翻弄されながらも愛し続けることを止めません。そうしてわずかにその愛は報われたのですから、愛は取引きではないと承知しながらその見返りに未練を隠せないぼくたち凡人の貧しい心に、優しい救いを齎してくれるエヴァンジェリーヌではあります。

1994年。記念すべき第一回世界アカディアン会議がニューブランズウィック州で開催されました。その模様は太田和子さんによるレポート(「『世界アカディアン会議』とアカディアン・アイデンティティ」、森川眞規雄編『先住民、アジア系、アカディアン』行路社、所収)に詳しいのですが、学術的な討議からコンサート、同性ファミリーの集い、芸術作品の展示まで幅広いものだったようです。
なかでも注目したいのは、モンクトン大学で開かれた専門家会議での議論でしょう。太田さんは次のように報告しています。「神話や象徴によって創り上げられた過去の歴史は、集団としてのアイデンティティ形成に重要な役割を果たしてきたが、今では束縛ともなっており、そこからいかに解き放たれうるかというのが問題だという指摘がなされ、会場が騒然となるシーンもあった」。
この問題はいかにも今日的で、このところ過熱気味の日韓、日中の関係でも指摘できることでしょう。ぼくたちを支えるアイデンティティが一方でぼくたちをつらまえ、未来志向を妨げる。声高に叫ぶプチ右翼とも称される人たちが、しかし社会的にはどちらかといえば弱者に近いケースが多いと分析されるその裏には、過剰なまでのアイデンティティ志向が貼り付いているはずです。そうすることによってしか自分を支えきれない大きな不安が、そうすることによってしか自分を認めさせられない焦りが、彼らの罵声と怒声の正体なのだとは言えないでしょうか。
つかの間とはいえ繁栄を築き、悲劇の中にあっても自分たちの文化、自分たちの言語を絶やさずに今日まで歩んできたアカディアンの物語は今日、民族の神話としての役割を終えて、新たな歩みをより広い世界の中で、始めたのかもしれません。
アカディアンのゴンクール賞作家アントニン・マイエ(Antonine Maillet)は会議のテーマをこう表現していたと言います。「アカディアは世界に語りかけ、世界はアカディアに応える」と。(『杉本紀子退職記念文集』所収、2012年12月)